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12/09: 『乙女シリーズ その一 花物語 福壽草』 Fukujusô (1935) -1-

ラヌンキュラセアエ ペレニアル《Ranunculaceae perennial》【学名】、アムール・アドニス《amur adonis flower》【英名】。またはアドニス・ラモサ《adonis ramosa》【通名】。花言葉は永遠の幸福。

吉屋信子原作の「花物語」(1916〜1924)の一篇を新興キネマが映画化した。その一ということは、その二、その三と続いたのであろうか。制作は相前後しながら一月後れの公開となる「釣鐘草」がその二で。それでおしまい。他に1940年に同じ「釣鐘草」を東宝が映画化した記録がある。1920年代には有るか無きかであった吉屋原作の脚色作品は1930年代になると一挙に30近くまで増加する。幾つか拾っただけでも、女人哀愁、女の友情、女の階段、女の約束、女同士、女の教室、と女性向けのメロドラマを期待させるタイトルが並ぶ。大正期の少女雑誌に断続的に連載された原作「花物語」にメロドラマ臭は希薄である。夫々に花の名前を与えられた断章を束ねる書物のブーケは、前後の脈絡を欠くが為にかえって鮮明であるような少女期の想念の儚さを花のイメージに寄せてスケッチする。原作に出来るだけ忠実な脚色を試みようとすれば、開花と萎凋の植物界のモノトーニアスな反復が文章の織り上げるセンチメンタリスムにずれ込み規則性の綾をなす処まで、つまりイメージの気紛れによく耐え、読書体験にも似た何ものかになるまで——そうした実験映画を標榜するわけではない『福壽草』は、当然ながら原作に忠実な作品ではない。 原稿用紙十枚余の掌編を67分の劇映画にするために加えられた主な変更を挙げると、先ず時間経過である。原作の時間はヒロイン薫の尋常科二年生(7歳)から女学校二年生(14歳)までの7年であるが、映画では女学校の一年半のなかに出来事が濃縮される。次に時代背景である。原作の1910年代末は製作当時の1930年代半ばに変更される。それによりヒロイン薫の実家の没落は父の商売の失敗から大恐慌後の兄の株投資の失敗へと、また捲土重来を期す父と兄が向う先は排日移民法*1成立以前のアメリカから満州へと変わる。さらに大きな変更は原作で没落直後に世間体から実家へ戻される嫂の美代子*2は、映画では嫁ぎ先に留まって苦労するうちに結核に羅患し、やがて実家に引取られ白樺派を思わせるサナトリウムに入院する。二人の女性の仲が引き裂かれ、一家は離散してヒロイン一人が寄宿舎に入るという骨子はそのままに、映画は絶間のない運命の翻弄にそよとも漣を立てない水面のような原作の女性像から逸脱する大掛かりなメロドラマ装置を引き込む気満々である。結果として、痙攣性の発作めいた原作の唐突な幕切れを噛み砕いて緩慢に消化するように物語は再構成される。

薫と美代子。時世の移ろいに翻弄される二箇の魂は、ゆかしい福壽草の縁に結ばれてこの世の外の幸せを成就する。



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06/08: 「『北北西に進路を取れ』の空間システム」 Spatial Systems in North by Northwest. (1992) -- 1 --

小難しい批評の類いは専門家に任せておけと云うのは嘗ての哲学や芸術の話であっても映画には当てはまらない;モデルニテ以後の産物としての映画は生来、誰もに意見表明の機会を提供する開かれた傾向を保持すると考えられる(専門家であれ、門外漢であれ、玄人であれ、素人であれ、それに最も相応しい特権的語り手の存在を保証する如何なる断言も存在しない)。マルクス主義に基づく難解なモダニズム批評で知られる文化・文芸批評家フレドリック・ジェイムソン【Fredric Jameson】の「『北北西に進路を取れ』の空間システム」*1は、後期資本主義社会の解読に影響力を持つ学者であると同時に所謂シネフィルではない人物による映画分析として興味深い。


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