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25/02: 第140回芥川賞選評

芥川賞は、その受賞が書き続けることの社会的担保を保証するという意味に於いて登竜門である。とはいえ、べつだんここに賞の権威的側面を強調したいのではない。寧ろその観点に立てば、作者によって選ばれた文字言語以外の多種多様の素材:テーマ、モチーフ、ストーリー、それら作者/読者の個別的関心事に小説の見取り図を提供するものたちは当座の方便に過ぎない、選考理由としての尤もらしさを失うのではと言いたいのである。今回の選評のなかに、それら相変わらずの選考理由を認めるのは手もないことである。そこで彼らは何を選びとるのか、形骸化した儀式に付き纏いがちな商業主義、マンネリズム、カタログ化に抗って作家の見識を示すのか。もとよりそれは「選ぶこと」の場であったのか。新橋の料亭に集う九名の委員のひとり、小川洋子氏の選評を締めくくることば——「津村さんはこれからどんどん書いてゆくだろう。それは間違いないことであるし、いちばん大切なことである。」——が、船首が砕くシャンパンボトルによって聖別された処女航海の図とけっして似ることのない儀式への陰鬱な銅鑼の音に響く。


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13/08: 第139回芥川賞選評

第139回芥川賞受賞作「時が滲む朝」を読む。1964年に中国に生まれて1987年以来日本に居住する作者が日本語で小説を書くというのはいったいどのような心理が働いてのことなのだろう。わたしが同じ立場であったならけっして選択しない道である。両国語は下手に似ている部分が無きにしも非ずで、どうせなら思い切って未知の言語を選びたい。

偉大なる自由民主の国──アメリカに生まれれば、百歩を譲って、八九年の後に亡命先としてアメリカを選択すれば、さらに百歩を譲って、世界中のほとんどの国にビザなしでいける日本の国籍でも持っていればな。*1


作者にとって、民主主義の高度な達成であるアメリカと比べて曖昧さを残す日本の自由主義的風土(この先どこへでも行けそう、政治的にも、あるいは単なるトランジットとしての成田空港でもよい)のモラトリアム空間のなかで生きること=書くことに意味があったのであれば、曾て孫文も魯迅も蒋介石も周恩来も先ず日本を経由して軈て中国へ帰っていった当時から事情はそう変わっていないのかもしれない。と、二十世紀中葉、日本にとって最も近くて遠い国であった中国民衆の今日の日本観を予想してみる。


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28/02: 芥川賞ジャーナリズム・新派旧派それ以外

第138回芥川賞受賞作品「乳と卵」を読む。いきなりの関西弁が控え目にオフビートを打つ調性に面喰うが、全体の構成は案外掴み易くて以後頁を捲るテンポはトントン拍子である。クライマックスの卵かけの場は可笑しい。ここは可笑しいから噴いてもいいの?一度呼吸を整えた後、周囲に気兼ねしいしいならいいかも。うん、そだね。


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