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09/11: 今日の映画

今日はNFCで『朝から夜中まで』と『脱走者』を観る。ドイツ表現主義映画の前者は歪んだ装置の配置やサイレントに逆らって饒舌な小道具の介入が表現主義絵画と地続きの空間を成立させる。在るか無きかのその間隙に大胆にも滑り込んだものたちによって示される時空の焦燥を愛おしく思う。
ソヴィエト・モンタージュ派プドフキンのトーキー第一作の後者で「ソヴィエトの独裁者」の台詞が聞かれるとき一瞬ドキッとするのだけれど、トーキー初期にありがちな音と画とのシンクロニシティのルーズさを逆手に取ってナラティヴを輻輳させるという意外な展開に。当時の独裁者は作者のメッセージを正しく受け取り得たろうか。

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29/02: 『春なき二万年』 20,000 years in Sing Sing (1932)

高級マンションの上階のフラットにトミーは久しぶりに帰ってきた。名の通ったマフィアである彼の服役後、そこは情婦フェイの独り住居である。彼女はつい最近走行中の自動車から飛び降りて瀕死の大怪我を負い絶対安静の状態にある。模範囚である彼への特別の計らいとして、所長はトミーに単身での見舞いを許可したのである。夜までに必ず刑務所へ戻るという条件付きで。


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20/07: 黒猫

1934年のユニヴァーサル映画『黒猫』はきわめて風変わりな映画である。それを一口でslyな映画と表わせてしまえるにもかかわらず、だからといって単純な作品と言い切ることが不可能という「曇りない曖昧さ」に包まれた不可解な映画である。既にフランケンシュタインを演じたボリス・カーロフとドラキュラを演じたベラ・ルゴシの両怪優の共演作としても知られてる作品ですが、彼らが演じたのは怪物フランケンシュタインやドラキュラとは正反対に、明快なキャラクタを欠くことで得体が知れなくなっている人物たちです。「曇りない曖昧さ」というと作品へのプロデューサの干渉を排する目的でショットを細かく撮り分けて編集困難にしたというヒッチコックを思い出しますが、やや似てるもののこちらの方が遥かに構造的かつ重層的な気がします。最初のトーキー作品と云われる『ジャズシンガー』が撮られたのは1927年ですから34年当時のハリウッドで無声映画一般は過去のものだったことでしょう。この時代風潮にあからさまに逆らって撮られたのが『黒猫』ではないかと思います。つまり、トーキーで撮られたサイレント映画というわけですが

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